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超絶技巧

2011年マイベスト10

あけましておめでとう。
いまさらだが、2011年公開作品のマイベスト10を書いてこう。
つっても、「スーパ−8」も「恋の罪」も「アジョシ」も「マネーボール」も「猿の惑星」も見逃しているんであんま参考にならんランキングだと思いますが。

1位 ブラック・スワン
もうラストの「 It was perfect」の台詞とともに俺も「 It was perfect」と呟いちゃうぐらい。
『観た後放心状態』映画でした。凄まじかった。

2位 冷たい熱帯魚
これも『観た後放心状態』映画。名作「愛のむきだし」の園演出を踏襲しつつも、血まみれドロドロカオスクライマックスで過激度追加で最高でした。

3位 監督失格 
観た後数日間は思い出し号泣してしまった。
人間の「弱さと向き合う事」を掘り下げ描いた…って書くと陳腐だけど、そうなんです。
小さくて下品で弱いけど、なにより強い作品。

4位 マイバックページ
ややこしい時代のややこしい人間の物語なのだがしっかり「行きてし帰る物語」になっているんだよね。沢田が政治闘争や裏切りや革命の言葉が跋扈する異界から、市井に生きる人々のもとに戻ってくるラストシーン。泣きじゃくっちゃったよ、おっさん。

5位 ソーシャル・ネットワーク
丁度、今観直したばっかで好感度急上昇した作品。様々な対立構造(体育会系と文科系、マークとエドゥアルド、伝統と前衛、等々)が複雑に絡みつつももの凄くテンポが良くて素晴らしい。めちゃくちゃよく出来てんじゃん。

6位 スーパ−!
平成版タクシードライバーな狂って切なう燃える映画。最高。大好き。
OPアニメがキュートすぎる。

7位 Xメン・ファーストジェネレーション

8位 ブルーバレンタイン

9位 サウダージ

10位 一命


です。
もう1〜6位ぐらいまでは入れ替え可能レベルでどれも好き。
どの作品も観るべき名作だと思います。

ワーストは…
お金無いんで酷そうな映画は観に行ってないんで、大外れは無いんですがやっぱ「モテキ」かなぁ。
「モテキ」はムカついたなぁ。
「ノルウェイの森」は原作ファンとしては納得いかないけど、なんだかんだで心に残っているものね。
ジョニー・グリーンウッドの音楽良かったし。


そんなこんなでこれからは2011年に見逃した映画をレンタルする仕事が始まります。


今年も宜しくお願いいたします。

しょうがないから、頑張るよ。

2011年11月18日25時36分(寝るまで今日主義)、酔っぱらって帰ってきてこのブログを書いている。
同棲している彼女が出張中でやる事がなくて手持ちぶたさにブログを書く。
毎回思うのだが、手持ちぶたさ?手持ちぶさた?どっち?どっちでもないの?

それはともかく昨日観た「川の底からこんにちは」という映画について語りたい。
ホントはグラスを傾けて語り合いたいのだが、もう呑みすぎてグデングデンなのでキーボード相手に語るとしよう。
最近、映画やその他表現に自分を投影して観ることが多くなったのよ。
昔は海賊や魔法使いやヒーローや葛やギャングに自分を重ねられなくて、ただ「かっこいいなー」と観ていたのだが、歳のせいやら環境のせいやら映画ファンがたたってかついつい自分の環境や心境を作品に重ねて観てまう。
これが正しい見方かどうかわからんし、アイドンギブアファックなのだがしょうがない。

そんで、「川の底からこんにちは」観てかなり俺の心境と重なる部分というか重ねたい部分が大きくて
必要以上(?)にこの映画に感動してしまった訳です。
映画としての完成度で言えば、
満島ひかりの演技力や存在感に頼りすぎているところはあるし、
満島ひかり以外のキャラクターはあまりにも劇画的でリアリズムが無さ過ぎるし、
脚本も綺麗とは言いがたいですがその根底にあるメッセージに心揺り動かされまくってしまった。

満島ひかり演じる主役の佐和子は「しょうがない」が口癖。
この「しょうがない」が前半は自分を取り巻く現実的問題から壁ををつくり向き合わないための「しょうがない」から、
後半、現実を見つめつつ自分の弱さ・ダメさをひきうけつつの「しょうがない」に変化していく。
そして「しょうがないから、頑張るよ」になっていく。

俺はこの「しょうがないから、頑張るよ。」に強く感動を覚えた。
それは現実逃避や、その場しのぎや、後ろ向きな「しょうがない」じゃなく、
現実のどうしようもなさを引き受けた上での「しょうがない」であり、だからその後に「から、頑張るよ。」と台詞は続くのだ。
そりゃ、現実ってのは殆どが自分勝手で否応も無く残酷で俺の意思なんかとは関係なくふりかかってくるものである。その事は今年1年で身に染みすぎるほど経験した。
その現実から逃げてファンタジーに浸っていても、目が覚めれば何も変わらない下手すりゃもっと悪化している現実が開けたまぶたの目の前に現れるだけです。

だから現実はどうしたって、どうやったって、「しょうがない」ものなのである。
俺が金持ちや王族や勝ち組やイケメンでパーフェクトメンだったら違うかもしれない、
でもしょうがない、スヌーピーが言うように配られたカードで勝負するしかないのだ。

満島ひかり演じる佐和子が言うように「しょうがないから、頑張るよ。」しか無いのだと思った。
真のポジティビティとは、「駄目な事を『駄目じゃないよ』と言い張る事では無く、駄目な事に対して真っ正面に駄目と言える事」となにかで読んだが、その通りのメッセージなのである。

駄目な現実(自分)から逃げるのでも、腐るのでも、ごまかすのでも、逆ギレするのでもなく、真っ正面に受け止めて頑張る事こそが、少なくとも今の俺に響く言葉なのである。
それは言葉を変えれば「でも、やるんだよ!」である。

「しょうがないから、頑張るよ」を負け犬の言葉や後ろ向きな言葉としか受け取れないやつらは、どんな幸福な人生や脳みそ使わない人生を歩んできたかしんねーけど、勝手にしやがれ、ぼけー。
よっぱらったんじゃー。
わしゃ寝るゾー。

拝啓、ジョンレノン

さて、深夜でござる。
ジョン・レノンのビートルズデビュー前を描いた「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」を観た後で一服こきながらこの文章を打ち込んでいる。
ジョンの家庭環境やポールとの出会いやチンピラ時期の話はもう何度も聴いた事があるんだが、映像で観るとやっぱりグッとくる。

ロックンロールがジョンを救い、そのジョンが作ったビートルズが世界中を救い、ビートルズから派生した数々のバンド達が回り回って俺を救ってくれている訳で、なんだかんだで世界は繋がっているのだなぁ。
と思ったのである。

音楽や文学や漫画や映画や詩その他諸々の表現には、本当に助けられた。
特に思春期に聴いたロックやパンクにはいくら感謝の言葉を書いても足りない。
俺はそれらの音楽を逃避のタメに聴いていた。
ここでは無い場所に行くために、今の気持ちじゃない気持ちになるために、ロックやパンクを聴いていた気がする。
現実と向き合うためじゃ無く現実から逃げる為に、ヘッドファンで耳を塞ぎ歌詞カードで視界を覆い心の中でのたうち回りながら大声で曲に合わせながら無言で叫んでいた。
それはあまり健全とは言えない行為かもしれないが、当時の俺にはきっと必要だった。
時には健全じゃない事の方がタメになる場合があるのだよボーイ。
どーせ、いつまでもファンタジーの中じゃ生きられないのだから、浸れるうちは浸っといた方がいいのだよボーイ。
「逃避」という行為は必要な者には必要なものなのだ、そして必要じゃない者にはその事をどーこー言う権利は無い。
おせっかいで見当違いなポジティビティなんか、犬にくわせちまえ。ぼけ。


そして今、思春期を過ぎ否応無く現実という津波が俺に襲いかかってきている訳だが、
音楽はその鳴りかたを変え俺をまだ助けてくれている。
感謝感謝。

ももクロにハマらない様にするのが大変

やぁ!半年ぶり!!
すっかりブログを書く事を忘れていて、必死でログインIDとパスワードを思い出しなんとか「新規記事を作成」画面までアクセスできたバチ波 辰爾です。テンパって急に前髪ハサミで切り出すぞコノヤロウ。

震災後に何回もこのブログに文章を書こうと思っていたのだが、
モニターの前に座るたびに何故か言葉が脳から指先まで届かなくて、
画面を切り替えエロサイト巡回をしてしまう日々であった。
ツイッターの短い文でブツブツ呟いていると、それで解消した気になっちゃって。
逆にきちんとブログの様な長文を書こうと思うとちょっと気恥ずかしくもあり
「じゃぁ書かなきゃいいんじゃん…」の声に負けそうになる。いや、負けてもいいんだけど。
「じゃぁ書かなきゃいいじゃん」
「じゃぁ止めちゃえばいいじゃん」
「じゃぁ諦めちゃえばいいじゃん」
「じゃぁ死んじゃえばいいじゃん」等々
コンセントの刺さってないスピーカーから聴こえて来る声だが、
この幻聴に負けちゃいけない。
人は誰しも自分自身の中にニヒリズムの怪物がいて、その怪物が吐き出す「まぁ、いいじゃん。ブログなんか書かなくったって誰も困りゃしないし、誰もお前の事なんか待っちゃいないよ。自己満足なんだから、こうやってダラダラ誰に対してか分からない言い訳なんか書いてないで、いつもの様にエロサイト巡回しろよ。バカが。」の炎に焼かれつつもその怪物と戦わなければいけないんだ。


と、ここまで何にも書いていないに等しい無内容の文章なのだが、そんなこんなでちょこちょこまたブログ更新出来たらなぁなんて思ってます。
そんなもん、お前の案配次第だろうが。て事ですが、指慣らしって事で。

町田康「告白」論

すっかり、ブログを放置していたので管理画面に辿り着くにも大変だった。
二月になったのに今年初ブログである。
昔は毎日更新していたのに、ツイッターという手軽にアウトプット出来る装置があるとついついそっちで発散してしまって言葉が体内に溜まらなくなってしまってるのだ。
そして、久々のブログで何書こうかってんだがメンドクサイ事を書く事に決めているのだ。
「おめー、バカの癖にごちゃごちゃ偉そうに書いて、考えてるみたいに装ってんじゃねーよ。ぼけ」と言った声がコンセントのささっていないスピーカーから聴こえてくるが幻聴だから気にしない。
俺は被害妄想の誇大妄想だから。
ほら、嫌われる前から「あいつ俺の事嫌いなんだ」って考えて卑屈になっちゃうタイプだから。
何か書く前に先に言い訳打っとかないと、思ったように打てないから。

よし、指ならしは済んだ。
これからメンドクサイ話を始める。
アイドンギブアファック。

なんでこんな事をグダグダ書いていたかというと町田康の「告白」を読み直したからなのだ。
河内音頭の“河内十人斬り”をモチーフに書かれたこの作品は「言葉」を巡る物語である。
自分の内面を語る「言葉」を持たない主人公 熊太郎が「思いと言葉と行動が一致」する事を求めてあがき、堕ちて、殺人に至る物語である。
熊太郎の「頭ん中思てる事をな、口で言お思てもな、その言う言葉がな自分でいっこも思いつけへんね」という感じは俺らも常々思ってる事でもある。
ほら、あるじゃんよ、自分の気持ちを直線で言葉に出せない時や、思っても無い事口走っちゃて「あれ、なんで俺そんな事言っちゃったんだろう。時よ戻れ。さもなければ死を」的な時。
俺はしょっちゅう有る。
それどころか、しっかり自分の思った事を喋れてそれがしっかり相手に伝わったと感じた事は、俺の下らない人生の中でも数える程しか無いのじゃないかいな。
コミニュケーションブレイクダウンである。やはりzepは偉大なバンドだ。
それでも、やはり何度かは「思いと言葉と行動」が一致した瞬間は俺にはあった。

熊太郎の「頭ん中思てる事をな、口で言お思てもな、その言う言葉がな自分でいっこも思いつけへんね」という悩みはいわば近代的自我の苦悩である。
熊太郎以外の村民はこういった悩みを持たない。
彼らは言葉と行動が直結している世界に生きている。
“近代文学が内面を作った“と言われるように近代文学が存在しない世界に生きている彼らには内面が存在しない。
だから熊太郎の苦悩は誰にも理解されない。
熊太郎は葛木ドールという怪物を異界で殺す事によって、近代的自我が無い世界で一人だけ近代的自我を与えられる。というか近代的自我の呪いにかかる。(何故?というのは聞かないで)
そして思考と言葉と行動の不一致に悩み、悲劇が始まる。
熊太郎の「思考と言葉と行動が一致」する瞬間は殺人の時だけだった。悲劇だ。かなしいかなしいだ。

俺が思うに熊太郎に必要だったのは、パンクだったんじゃないだろうか。
あるいは、ロック、ヒップホップ、絵画や映画や文学、つまり広義の意味での“詩“である。
自分の考えを、思いを、ただ直線で言葉にしても他者には伝わりにくい。
自らの考えを他者に伝える為には「表現」という迂回経路を経由しなければしっかりと伝わらないのである。渋谷陽一も書いていた。

熊太郎は殺人なんかせずに“詩“を作るべきだったのだ。
「思考と言葉と行動が一致」する為には“詩“が必要なのだ。
全ての殺人者は“詩“を書くべきなのだ。
これが俺の「告白」を読んだ後のピースフルでハートフルな感想である。

唯一の救いは熊太郎は死後、河内音頭という歌そのものになった。
さらに時を経て熊太郎の人生という“詩″を町田康が書いた。
そして俺らは読むべきなのだ。


俺の悲惨な思春期を救ったのは文学や音楽や絵画や漫画や数々の表現だった。
そして書店やレコード屋やビデオ屋さんに並ぶ作品の列を観るたび安心する。
まだまだ俺を救ってくれる“詩“がたっっっっっっっぷりある。
俺はまだ殺人をしなくてもよさそうである。
そんな訳でメンドクサイ俺ちゃんではありますが、今年もよろしく御願いいたします。

映画「ノルウェイの森」への文句

ツイッターをやっていると、アウトプットする欲求がある程度解消されて
ドンドンブログを書くのがおろそかになってしまい、イカンと思う。
いや、別に何がイカンという訳では無いのだが何年も続けているこのブログがこのままフェイドアウトするのはあまりにも偲びない。と思うのであーる。

トラン・アン・ユン監督「ノルウェイの森」を観た。
なんだかんだ言って10回以上読み直したであろう作品で、村上春樹のベストとは思わないがその作家歴の中でも大きな意味を持つ作品だと思ってる。
ので、映画の出来がいくら良くても100点には決してなりえないだろうと思って鑑賞した。

んで観たけど、全然良くなかったのよね。

何よりもかによりも、緑が全然魅力的じゃ無い!!!!!!!!!!
緑って登場人物は村上春樹作品の中でトップいや、日本文学史上トップ10に入る位魅力的な女の娘なんだよぉぉぉぉ!!!!!!!!
俺が初めて「ノルウェイの森」を読んだのは中学生時代である。
それでもう、惚れた。
もしキャラクター化されていたなら、抱き枕カヴァー買っちゃうレベル。
スキンヘッドにして後頭部に「I♥緑」って彫っちゃうレベル。
天化統一を果たしたら、住んでる土地の名前を「緑町」に改名しちゃうレベル。
その緑が、まーーーーーーーーーーったく魅力の無い描き方されている。
あれじゃただのビッチじゃんかい。

そもそも「ノルウェイの森」というのは二元的な物語なのである。
異界=直子と、現実=緑との二つの世界を行き来する物語なんだよ、それが映画では直子と緑のシーンを全く同じトーンで描かれている。
超越的、シャーマン的な直子は菊池凛子の素晴らしい演技によって表現されているが、緑のシーンがそれと同じじゃ駄目じゃんyoooo。いや、役者の娘はかわいいし良いと思うのよ。
ったく監督はちゃんと原作読んだんかい?

原作で緑の実家(商店街の本屋)で晴れた昼下がりにベランダで火事を観ながらキスをするというとても美しいシーンがあるんだが、これカットというか変更。
このシーンは村上作品に初めてしっかりとした和食が登場し、世俗的な空気を持つ「緑」というキャラ
をよく表現しているシーンなんだけど、映画では雨ふってんの。観ながら「これじゃ火事おきないじゃん」と思った。
食事シーンは遠巻きで何食ってんのか分からん。
んでなんか愛っぽい事言ってキス。
原作でも「あのとき火事がおきなきゃワタナベくんとキスしなかった」的な事いってのにさー。
なんじゃそりゃー。ニュアンス滅茶苦茶じゃんよ。

その他にも蛍のシーンや緑の父親の話もカット。
特に蛍のシーンは戦後文学史上トップ20に入る美しいシーンだと思うのでぜひとも映像化して欲しかった。(画的にも映えると思うのだが)
そのかわり、強く描かれたのが「性」のシーン。
「ノルウェイの森」は村上作品で初めて「死とセックス」を正面きって書かれた小説だから、「死とセックス」を強く前に出すのは分かる。
だが、「死とセックス」だけでは直子パートだけになってしまう。
「死とセックス」をしっかり描く事の丁度反対側に「現実を生きる=緑」を置かないととても陰惨な話になってしまう、この映画の様に。
だからラスト原作では電話ボックスから「緑=現実を生きる事」に電話をかける。
そして緑に「今どこにいるの?」と聞かれ、そこが『どこでも無い場所』だと気付き混乱するのだ。
その場所は「直子=超越的な世界」と「緑=現実」との中間地点なのである。

んだども映画では家のアパ−トのロビーから電話している。
それじゃ「どこでも無い場所」になってないじゃん。
あの台詞は匿名性の高い電話ボックスで、いままで作中で出てこなかった場所で発せられないと意味が無い。というか意味が分からない。
まったくもー。
あと最後のモノローグははっきりと蛇足。

そりゃ、原作とまったく同じに作れって思ってる訳じゃないが、中途半端に作品の表層をなぞってるお陰で物語として破綻している。
原作未読の人は分けわかめじゃないか?

あと、村上春樹的台詞回しは実際に俳優が発声するとかなりキツい。
演劇調というか、クサすぎるというか。どーしてもリアルティが無く、台詞の度にさめてしまう。

ジョニー・グリーンウッドの音楽と菊池凛子はとても良かった。
背景も都市のシーンはなんだか貧乏臭いのはビートルズ楽曲の著作権料が高かったからかな?

……やれやれ。

酔っぱらい帰宅!!

本で読んだ話。
今ね、「水」が商売になっているらしい。らしいじゃなくて本当の事だけど。
日本の様に水道局は国の管理になっていて、安い水道代で水が飲めるってのは世界で観ると珍しいのね。
「水道を国が管理してない」って事はどーゆー事かと言うと、民間の業者が水道を仕切ってる訳。
そんでやはり企業なので、「安く仕入れて高く売る」の精神の乗っ取り、コストダウンで汚水が混じったり清潔な水を飲むためには生活費を大きく削らなければいけなくなってる訳よ。
それで、水道を使えない貧民層は浄化されていない川の水とかしか飲めなくて、病気になって死にやすくなってしまう。

この問題を観て思ったのは、これって冷戦時代に共産主義勢力が言っていた資本主義経済の悪口のまんまになってるじゃん!!って事を思ったのね。
共産主義が資本主義に言う悪口なんて「そんな訳ねーじゃん」って思って聞き流していたけど、それが現実へとなってきたんじゃなかろうかと思ったの。アルコールで麻痺した脳みそで。

雨振ってるから大口あけとこう。

何を見ても何かを思い出す

ハロー、ハロー、ハウ・ロー?
酔っぱらって帰宅で調子がノって久しぶりブログ更新。

最近、気付いた事。
俺は自転車乗りながら吐ける事に気付いた。かなり行儀よくないが、そもそも吐いてる時点で良くないので、すいません。行儀気にして生きるには、道を踏み外しすぎてます。

色々本読んだり、映画みたり日々してるのですが、こんな酔っぱらい具合では感想もかけずであります。
もう11月であり、気を抜いたら今年も終わってしまうのでどーしよう。

やりたい事もやらなきゃいけない事も沢山あるのですが、ついついタラタラしちゃうのよ。

いかんいかん。キーボードをぱたぱたするのが楽しくなってきた。
とくに書きたい事はないのだが、ぱたぱたしたいからもう少し文章は続く。
パタパタといえば、俺が始めてファミコンでマリオブラザーズをプレイしたのが、実家の豆腐屋が火事になりお向かいさんの家に半居候をした時なのだ。
いやーこんな面白いものが世の中にあるのかと、思いプレイした。というかプレイさせてもらった。
今思えば、糞ゲーも神ゲー。
だって窓の外には俺ん家の焼け跡見えんだもんwwwwwwwwww

さて、思い出したくない事まで思い出しそうなんで寝るわ。
悪夢確定。

の巻。
タイトルはヘミングウェイの作品から

時が流れても

明日は休みなんが、髪きりにいったり旅行代理店に行ったりするつもりで早めに起きなきゃなーなんて思っていたんだが、キーボードをパタパタしたくなった。
真っ暗な画面に向かってキーボードをパタパタしても良いのだが、少しは意味のある事をやろうと思い、こうやってブログを書いている訳である。
結果、意味の無い事をしているのかもしれないが。

なんだかんだでバタバタしていて、忙しい気持ちになっているが実際にはやっている事はたいして無いみたいな、燃費の悪い今日この頃。
朝から晩までコーヒーを飲んでいる。
深夜にホットコーヒーを入れて読書をする時間が至福である、
夏目漱石と入間人間を読んでいて、明治と平成の間を行き来している。

あれやこれやと考えているウチにもう10月の半ばである。
一昨年の六月ぐらいの心持ちでいたのだが、ふと我にかえって首を起こしたら目の前には死体があり、俺の両拳は真っ赤っか。
嘘。
意味の無い嘘。
でも意味のある嘘はあまり良い結果を生まないので、結果おーらい。
そう、10月である。
英語に訳すとタコみたいで、子供のとき混乱した10月である。
10月と言えば、仮装しお菓子をもらいにきたガキを玄関先で怒鳴っておいかえす祭りがある。
煙草も値上がりし、もういくつ寝るとお正月である。
今年もあと二ヶ月で終わってあっちゅーまに正月である。
お年玉をもらいにきた親戚のガキを玄関先で追っ払う日々が始まる。
「光陰矢の如し」とはよく言ったもので、本当に時の経つのは速い。
果たしてほんとうに俺と言う人間は進歩しているのだろうか?
経験値が上がらないまま、始まりの村の回りにいる雑魚モンスターを虐殺しているだけの気もする。

この気持ちにぴったりなグレート・ギャツビーの名文を引用して寝よう。

「ギャツビーは緑の灯火を信じていた。
年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。
それはあのとき我々の手からすり抜けていった。
でもまだ大丈夫。
明日はもっと速く走ろう。
両腕をもっと先まで差し出そう。・・・・そうすればある晴れた朝に—
 
だからこそ我々は、
前へ前へと進み続けるのだ。
流れに立ち向かうボートのように、
絶え間なく過去へと押し戻されながらも」

名文である。

ワイルドサイドを歩け

何回も口をすっぱくして言うが、
映画や漫画やドラマ、主に物語が主題となる表現の素晴らしい所は「他の人生を生きれる」という事だ。
人間だけが他の人生を想像する事が出来る。
猫や犬や象やハシビロコウやその他の動物は、俺らと同じように飯を食い、水を飲み、性交をするが彼らには「生き直す」という事が出来ない。
俺らは経験を頭の中で反芻したり、他人の表現によって自分以外の人生を体験する事が出来る。
別に何回も言ってないし、口が酸っぱいのはカリカリ梅を食べているからなのだが、これだけは本当である。

なんでこんな事を深夜にポテポテとアイロン台の上に置いたPCに向かって打ち込んでるのかと言うと、
ショーン・ペン監督作品『イントゥ・ザ・ワイルド』を観たからだ。
wikiからの引用だがストーリーは

『裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ったクリスは大学を優秀な成績で卒業する。 両親はハーバードのロースクールに進学することを望んだが、金で物ばかりを与える親に嫌気が差したクリスは学資預金を寄付し、 身分証を切捨て、この世界の真理を求めアラスカへと旅に出る。旅路の中で様々な人と触れ合い、本当の幸せとは何かを知る。』
ちなみに実話。

俺はヒッピー系の考え方が苦手で、こーゆー「文明社会ファックだぜ」的な話はダメなんだが
この映画の主題はヒッピー賛歌でも文明社会批判でも無く、「真実の幸福や真理は、他人とその感覚を共有する事で生まれる」という観念的な主題でとても感動をおぼえた。
主人公が荒野に旅立つという行為が通過儀礼(大人になるために通過するべき儀礼)としてしっかり描かれていて、ほんと、見る人が観たらきっと「人生の大事な一作品」になるのではないだろうか。

自分の人生の可能性について考えさせられる映画だった、俺もアレックスの様に独り荒野に旅立つ事は出来るだろうか?いや、ないな。
文明社会超好きだし、資本主義にどっぷり浸かってるし、欲にまみれてるし、魂が汚れてる。

まだガキだろと言われそうだが、ちょっと前までの俺は 自由が一番で、何一つ責任を負わず、自分の思うがままに人生をブン回す様に生き、独りで生きて独りで死に、やりたい事しかやらずに生きる事に憧れていた。
本当は今も憧れているのかもしれない。
でもやっぱり、それは幼い考え方なのである。
子供の考え方なのである。
何かを作るには、何かを守るには、誰かに愛を与える為には、それじゃ駄目なのである。
「である」が多すぎてバカボンのパパみたいだが、本当にそう思う。
俺ちゃんはそろそろ大人の考え方を学ばなきゃいけないのである。
それはある意味、人生を限定する事で俺の大好きな映画や小説や漫画の主人公の様な人生を諦める事だ。
でもそれでやっと俺の人生が始まるのじゃないか、とも思う。
不自由や責任や文明社会や資本主義や魂が汚れるのを自ら進んで選択する事こそが、大人になるという事じゃないのかと思うのだ。
いつまでも無垢でピュアなふりして社会に文句いってるだけの無責任なガキでは駄目なのである。

「うるせーよ、説教くせぇんだよカスが。調子こいて人生語ってんじゃねーよボケチンが!人生敗北宣言かそれ?勝手にお前の人生感だけで決めつけんじゃねーよ、ぐず」って意見にはパンク好き少年のバッチ君が出てきて「向こう行ってろカス」と言います。
逆ピースで指の隙間から口をブッーってやりながら。

ほんと良い映画だった。
自然の美しさパねぇ。
ショーン・ペン監督としても上手いです。

んじゃば、また。おやすみ。

«イカとクジラ

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